せっかく好き勝手に物を書いているので、そしてこんなものを読んで頂いているので、できれば楽しいことを書きたい。正直、心からそう思っている。が、世界で起こることは、そうでないことばかりだ。パリで恐ろしいことが起こったと思っていたら、今度は日本人が人質に…そして、痛恨の結果がもたらされた。
今、後藤さんを支えようと、世界に“I am Kenji”の輪が広がっている。ただ、自分から見ると、後藤さんは立派な人過ぎて、自分が彼だと言うのは何だかおこがましい気がする。何も見つからず、何もできずにいた若い頃、行き詰ったり、引きこもったり、八つ当たりしたり、日和見したり、長い物に巻かれようとしたり、新しいものに希望や生きがいを見出そうとしたり、”Bigger than myself”な自分を演出・夢想したり…そうだ、自分は後藤さんというよりも、むしろ湯川さんなのだ。“I am Haruna”なのだ。
残念なことに、ネット上では、彼を嗤ったり、自己責任だ、当然だという言葉が飛び交っている。それは、在りし日の、そして今もまだ残る、屈折した自分に向けられているかのようだ。もし自分がこんな冷淡で巨大な壁のような匿名の化け物に襲いかかられたら…きっとその状況に置かれただけで、恐怖に心がつぶれてしまうだろう。
さて、もう少し一般的に見てみると、ここのところ、他人の弱さや迷いを許容しないような、厳粛で立派なあり方が蔓延しているように思える。以前から言われていたことではあるが、昨今とりわけ、国家や世間様への責任やら道義やらが、これまで以上に求められるように感じられる。
つい最近も、サザンの桑田氏の歌が政権批判だ、褒章のメダルの扱いが不遜だ、との批判がネット上を席巻していた。で、例によって本人が謝罪…ある意味でこの批判のあり方は、ムハンマドの風刺画に目くじらを立てることに似ている(もちろん、それが実力行使に至るのは別論である)。
個人的には、マジメなことをバカにしてみたり、バカらしいことをマジメにやってみたりできることこそが、社会の健全さや余裕を表すものだと思う。面白おかしく生きるタイプのミュージシャンの言動にいちいち噛みつくのは、世の中がおかしくなってきていることの証左といえるだろう。
ここでいちいち具体例は出さないが、そういう風刺や皮肉を許さない姿勢、とりわけ、そういうものを国家と心ある市民とが一体になって批判する姿勢は、全体主義的専制国家に典型的なものだ。いや、それが望ましい、と言うのなら、むしろ正しい道に進んでいると言うべきなのかもしれないが。
それにしても、もっと不思議なのは、今回の人質事件の件で安倍政権批判を行った某野党議員に対して広がった批判である。野党なんていうのは与党を批判するのが当たり前、とりわけ政権の首班などは、人権侵害に近いくらい悪口言われるのがむしろ世の常ではないのだろうか。
野党議員が政権(首班)批判をしたらその政権からだけでなく世間からも猛批判されるというのは、それこそ全体主義的専制国家に顕著なことだと思うのだが、なんだか聞くところによると、もっともらしい理由があるらしい。いわく、テロリストを非難せず政権(首班)批判を繰り返しているのはいかがなものか…
この論法が世の中に広く受け入れられているとすると、自らの常識のなさに絶望せざるをえない。自分からすると、これはちょうど、納豆が臭いと文句を言っている人に、う○こが臭いと言わずに納豆が臭いとばかりいうのは納豆に対する冒涜だ、とでも言っているように聞こえるのだ。
自分にとって、う○こが臭いのは言わずもがなであり、恐らくすべての人がわかっているはずのことだ。これに対し、納豆はとりあえず食べる物であり、さらに自分と同じ価値や文化の基準の中にあるはずのものだから、それらはそもそも別個に論ずべきである。それを敢えて同列に論じなければならないとすると、それは逆に納豆をう○このレベルに引き下げることになりかねない(念のためですが、自分は納豆が大好きです)。
いずれにしても、政権も、マスコミも、社会も、そして人々も、なんだかあら捜しがひどすぎる。世の中総じて心に余裕がなくなっているのだ。ちょっとのことでやれ不敬だ、やれ売国だと、国民みんなの敵が作り出される。そして逆に、自らが敵になることを恐れ、自分も敵を一生懸命批判する。なんだかいじめの構図そのものだ。
こんな状況を目にするとき、中国を批判できるほど、この国がリベラルな価値を持ち合わせてはいない、ということを実感する。いや、少なくとも精神的・心理的な面では、日本のほうがよほど全体主義的かもしれない。もちろん、それが中国のあり方を肯定する理由にならないのは、言うまでもないが。
※ブログ管理者より この記事は2/1以前に書かれたものです。