2015年2月1日日曜日

物言えば唇寒し

 せっかく好き勝手に物を書いているので、そしてこんなものを読んで頂いているので、できれば楽しいことを書きたい。正直、心からそう思っている。が、世界で起こることは、そうでないことばかりだ。パリで恐ろしいことが起こったと思っていたら、今度は日本人が人質に…そして、痛恨の結果がもたらされた。
 今、後藤さんを支えようと、世界に“I am Kenji”の輪が広がっている。ただ、自分から見ると、後藤さんは立派な人過ぎて、自分が彼だと言うのは何だかおこがましい気がする。何も見つからず、何もできずにいた若い頃、行き詰ったり、引きこもったり、八つ当たりしたり、日和見したり、長い物に巻かれようとしたり、新しいものに希望や生きがいを見出そうとしたり、”Bigger than myself”な自分を演出・夢想したり…そうだ、自分は後藤さんというよりも、むしろ湯川さんなのだ。“I am Haruna”なのだ。
  残念なことに、ネット上では、彼を嗤ったり、自己責任だ、当然だという言葉が飛び交っている。それは、在りし日の、そして今もまだ残る、屈折した自分に向けられているかのようだ。もし自分がこんな冷淡で巨大な壁のような匿名の化け物に襲いかかられたら…きっとその状況に置かれただけで、恐怖に心がつぶれてしまうだろう。

 さて、もう少し一般的に見てみると、ここのところ、他人の弱さや迷いを許容しないような、厳粛で立派なあり方が蔓延しているように思える。以前から言われていたことではあるが、昨今とりわけ、国家や世間様への責任やら道義やらが、これまで以上に求められるように感じられる。
 つい最近も、サザンの桑田氏の歌が政権批判だ、褒章のメダルの扱いが不遜だ、との批判がネット上を席巻していた。で、例によって本人が謝罪…ある意味でこの批判のあり方は、ムハンマドの風刺画に目くじらを立てることに似ている(もちろん、それが実力行使に至るのは別論である)。
個人的には、マジメなことをバカにしてみたり、バカらしいことをマジメにやってみたりできることこそが、社会の健全さや余裕を表すものだと思う。面白おかしく生きるタイプのミュージシャンの言動にいちいち噛みつくのは、世の中がおかしくなってきていることの証左といえるだろう。
 ここでいちいち具体例は出さないが、そういう風刺や皮肉を許さない姿勢、とりわけ、そういうものを国家と心ある市民とが一体になって批判する姿勢は、全体主義的専制国家に典型的なものだ。いや、それが望ましい、と言うのなら、むしろ正しい道に進んでいると言うべきなのかもしれないが。
それにしても、もっと不思議なのは、今回の人質事件の件で安倍政権批判を行った某野党議員に対して広がった批判である。野党なんていうのは与党を批判するのが当たり前、とりわけ政権の首班などは、人権侵害に近いくらい悪口言われるのがむしろ世の常ではないのだろうか。
 野党議員が政権(首班)批判をしたらその政権からだけでなく世間からも猛批判されるというのは、それこそ全体主義的専制国家に顕著なことだと思うのだが、なんだか聞くところによると、もっともらしい理由があるらしい。いわく、テロリストを非難せず政権(首班)批判を繰り返しているのはいかがなものか…

 この論法が世の中に広く受け入れられているとすると、自らの常識のなさに絶望せざるをえない。自分からすると、これはちょうど、納豆が臭いと文句を言っている人に、う○こが臭いと言わずに納豆が臭いとばかりいうのは納豆に対する冒涜だ、とでも言っているように聞こえるのだ。
 自分にとって、う○こが臭いのは言わずもがなであり、恐らくすべての人がわかっているはずのことだ。これに対し、納豆はとりあえず食べる物であり、さらに自分と同じ価値や文化の基準の中にあるはずのものだから、それらはそもそも別個に論ずべきである。それを敢えて同列に論じなければならないとすると、それは逆に納豆をう○このレベルに引き下げることになりかねない(念のためですが、自分は納豆が大好きです)。

 いずれにしても、政権も、マスコミも、社会も、そして人々も、なんだかあら捜しがひどすぎる。世の中総じて心に余裕がなくなっているのだ。ちょっとのことでやれ不敬だ、やれ売国だと、国民みんなの敵が作り出される。そして逆に、自らが敵になることを恐れ、自分も敵を一生懸命批判する。なんだかいじめの構図そのものだ。
 こんな状況を目にするとき、中国を批判できるほど、この国がリベラルな価値を持ち合わせてはいない、ということを実感する。いや、少なくとも精神的・心理的な面では、日本のほうがよほど全体主義的かもしれない。もちろん、それが中国のあり方を肯定する理由にならないのは、言うまでもないが。

※ブログ管理者より この記事は2/1以前に書かれたものです。

2015年1月16日金曜日

面白くやがて哀しき

 先日上海の将棋倒し事件について少しご紹介したが、その際少し気になったことがあった。それは、亡くなった方の人数である。事件の状況がもう少しわからないので、それが多いとか少ないとか言うつもりはない。ただ、発生当初の35人という数は、大規模な事故で頻出する数字と言われている。それより多いか少ないかで、上層部の責任の問われ方が異なるから、だそうだ。そういえば、「高鉄」(中国版新幹線)事故もあのように凄まじい惨状を見せながら、当初の死亡者が35人くらいだったな、などと思うと、なんだか猜疑心が生じてこないでもない。

 さて、ちょっと重い話ばかりで申し訳ないので、今日は少しバカバカしい話をご紹介したいと思う。
 今年の年末、中国で最も人気のドラマは、絶世の美女と言われる範冰冰(ファン・ピンピン)演じる「武媚娘」、すなわち則天武后のストーリーであった。
 「あった」というと、ちょっと正しくない。このドラマ、聞けばなんと90回シリーズ、毎日放送しても3か月かかる、正に大河ドラマであり、現在も放送中である。
 自分も滞在中楽しく拝見したが、まあ歴史考証はめちゃくちゃだし、言葉遣いは現代風だし、何より則天武后の超人ぶりは、かの反日ドラマの英雄なみである。もちろん、映像はきれいで、演じる人たちの表情やしぐさも魅力的で、何より主役が眩いばかりに美しいので、エンターテイメントとしては十分楽しめるのだが。

 そんな人気ドラマなのであるが、ちょっと面白い余話があった。このドラマ、製作段階から既に注目を集め、多くの人がドラマのスタートを今や遅しと待ち焦がれていたそうである。ところが、16回目が終わったあと、突然の放送停止!
 中国で突然変なことが起こっても、なんだか理由もわからずに(こういうことらしいとの噂が流れるが)そのままということも多い。が、今回は若い人を中心に怒りの声が巻き起こり、それに対応せざるを得なくなったためか、テレビ・ラジオを所管する行政機関の責任者から、本ドラマにはよろしくない部分の「アップ」が目立つため、という理由が示された(らしい)。
 従来から、中国のドラマや映画は、お色気にかなり慎重である。かつてあるお笑い映画を見ていたら、男女が暗闇でベッドの中に消えた瞬間、映像がオリンピックの100m走に切り替わり、ベッドの中に消えたはずの男が中国代表として激走、9秒台の世界新記録!…と次の瞬間、再び画面は切り替わり、ベッドサイドでタバコを吸っている女性の姿。ベッドから男が首をだし、「悪いか!」と一言…お粗末でした…
 ことほど左様に、そっち方面については奥ゆかしい(?)中国において、注目の大河ドラマのお色気と言っても、そのつつましやかなこと推して知るべし、である。確かに、当初は少し「寄り過ぎ」な「サービス・カット」が多かったようだが、まあその程度である。

 そんなわけで、この的外れな理由はまたしてもネット上の憤怒を引き起こし、アメリカなど海外のそういったドラマが氾濫しているのになぜこの程度でダメなんだ!と叫ぶ声が上がることになった。
 すると、またしてもお偉いさんがコメントを出した。曰く、統計によれば中国の女性の92%以上が貧乳であり、胸部を強調したこのドラマを見たら、多くの女性が悲観するだけでなく、そのような女性を妻に持つ男が不満を持ち、その結果家庭ひいては社会の広範囲に矛盾を生じさせるから、とのこと…
 この統計がどうやってとられたのか、またなぜ放送を主管する機関がこのような情報を持っているのか、またそれが本当に「社会の広範囲の矛盾」を引き起こすのか、などなど、考えれば考えるほど首をかしげることばかり…当然、これもまた人々の罵倒と嘲笑を引き起こしたことは言うまでもない。

 いずれにせよ、このドラマ、しばしの中断を経て、再び放送されるようになった。が、なんだか画面上、胸の部分が不自然にカットされている…そして、これも不自然に、顔ひいては頭部が画面を埋めているような…
 この状況、ネット上の画像では一層顕著だそうで(4:3がさらに16:9になっているためか)、カットによっては頭の上のほうがすっぱり欠けてしまったりするとのことで、要求に応じてTV局が大急ぎで映像を処理したことが伺える。
 これが世の若い男性を憤慨または消沈させたことは想像に難くないが、この話、考えてみるとちょっとおかしい。一般に、中国のドラマは、放送前に審査を経なければならないため、全作品の撮影を終えてから放送されると言われている。最近の事情、また本作品について具体的に知るわけではないが、いずれにしても、全国で注目される有名ドラマに、テレビ・ラジオ管理部門の審査が行われていないはずがない。
 とすると、今さら誰がクレームをつけたのか?これについて、中国でまことしやかに語られているのは、具体的な指導者の奥さんの名前である。この人が不快感を示したため、行政機関(責任者)が慌てて対応し、TV局も急いで映像を再度編集して、要求に応じる映像に作り直した、というのだ。これも噂話に過ぎないのだが、このバカバカしいドタバタぶりを見ると、ひょっとすると…という気がしないでもない。

 以上、最近話題のテーマを紹介してみた。多くの部分は断片的に伝え聞いたところであるが、それだけを見ても、今回の騒ぎは何ともバカバカしく滑稽なものであったことがわかる。とはいえ、面白きことは、やがて哀しいのが常。思うに、テレビ・ラジオ総局の官吏も、またTV局・製作会社のスタッフも、バカバカしいと思いつつ、大あわてかつ大まじめに、上からの要求に応じて必死で作業をしたのだろう。
 ふと、あの新幹線事故の際、衆人環視の中で事故車両を無理やり埋めてしまおうとする映像が思い出された。誰かのバカバカしい命令は、当初「そんなバカな…」と思う人がいたとしても、幾層もの伝達を経て、命令に従わないリスクは否応なく増し、ついには慣性的な不感症によりかき消され、いつか何も考えず何も疑わずに、そのバカバカしいことを必死でやることになる。
 思うに、ある目的や正義が絶対視されるところでは、それについて人は考えることをやめるものだ。それを考えること自体が不遜で冒涜であるだけでなく、実際問題として危険だからである。ただその目的や正義は往々にして抽象的であり、その範囲は不確かである。そのため、人々はますます多くのことを考えないようになり、バカバカしいこともバカバカしいと考えず、ひたすら必死で行うことになる。
 それは外から見たとき、不思議で滑稽な光景をもたらすが、その内にはもう少し恐ろしいものが潜んでいる。それは恐らく、谷間のアップによりもたらされる悪影響よりもずっと危険であるように、自分には思われるのだが。

2015年1月3日土曜日

誰が為にニュースは流れる

 上海から、皆さんに新年のご挨拶を申し上げます。ブログをご覧頂いている皆様にとって、今年が良い年でありますように。

 さて、中国は日本以上に迷信的というか、吉祥にこだわるところがあるので、正月の最初はいい話とかめでたい話で始めよう、と思っていた。
 が、困ったことに、正月早々なにやらショッキングな出来事が…とりわけちょうど上海にいる折に、こちらの住居から見えようかという場所で大きな事件が起こってしまったので、これに触れないわけにもいかないように思う。まあ中国の本当の(?)年越しは旧正月なので、めでたい話はそちらですることにして、今回は発生から24時間も経たない衝撃的な事件について話すことにしよう。

 元旦は、いつもに増して早く目が覚めた。空が白むにつれ、大晦日の強い北風の甲斐あってか、数日来のスモッグも消え、久しぶりの青空が顔を出す。今年はいい年だな~…なんてのんきな気分になっていたところ、知り合い経由で衝撃のニュースが!深夜のカウントダウンに集まった人々が将棋倒しになり、事件翌日の朝の段階ですでに35人の死者が確認されたとのこと。
 驚いてTVを着け、とりあえずニュースを確認…ところが、探せど探せど、そのニュースが見つからない。正月番組っぽいものやドラマ、映画、スポーツ、トーク、バラエティ…ほかならぬCCTV(中央電視台=中国NHK)のニュースを見ても、インドネシアの飛行機事故とイタリアの船舶事故の話を詳しくやっているのに、なぜか地元の大事故の話がなかなか出てこない。

 …「なぜか」とは書いたものの、本当を言うと、自分の感覚はむしろ「やっぱり」だった。中国では従来から、報道は「正しい」ことが何より重要で、とりわけ重要なニュースについては、国家と党の関連機関が内容・程度・範囲について精査し、承認があって初めて報道がなされることになる。
 加えて、めでたい(はずの)時期にめでたくないニュースは控える、という習慣もある。今回は元旦を過ぎればいいだけかもしれないが、たとえば旧正月や国会開催日、そして建国記念日などには、その時期を通じて、国民的・国家的に重大な事件が起こっても、たいていの場合は映像もなくわずかに一言ニュースを伝えるのみとなる。

 そんなわけで、現地にいながら、目と鼻の先で起こった事件について、TVからは大した情報が得られない。とはいえ、TVから情報が得られないのは、こちらの人々も同様である。じゃあどうするかというと、みな口コミまたはネット情報に頼ることになる。
 自分にもメールや電話を通して、近しい友人から事件についてのうわさがどんどん入ってきた。いわく、事件現場近くでドル札に似たサービス券がばら撒かれたところ、本物のドル札と勘違いした人々が殺到した結果惨劇が生じたとか。なんともひどい話だと思っていたところ、いや、それは実は誰かが責任逃れのために作り出した話だ、いやいやそれ自体うそではないが、事件現場とはかなりの距離があり、関連があるかは一概には言えない…などなど、さまざまな話が飛び交っているが、どれも事実と断じるには不確かに過ぎる。

 そんなわけで、結局ネットや口コミからも確実な情報は得られず、残念ながら皆さんにビックリ情報をお伝えすることもできないのだが、自分はそもそもこの事件の詳細や真実を伝えようというわけではない。伝えたいのは、ここに見られるTVのあり方と、人々の感覚・考え方との救いがたいズレ、である。
 よくも悪しくもこのニュース、年末年始の中国で間違いなく一番ショッキングな、しかも身近なニュースだったはずだ。それがワイドショー的興味であれ、身近な危険への警戒であれ、なんと言っても場所も被害者もみな国内である。当然、携帯やメール、さらに食事の際や訪問先でも、人と会えば必ずこの事件の話になった。
 それに比して、ニュースのなんと超然としたことか。ローカルニュースはともかく、ほかならぬ中国NHK(失礼…)のニュースは、その多くの部分を予定通りの報道に当て、事件の話は簡略に淡々と「消息」が伝えられるのみであった。
 総じて、中国のニュースは首尾一貫して、人々が何を「知るべき」か、ということに重点を置いている。それは報道人員・機関及び報道内容に対する徹底的な管理と審査、というやり方に顕著に現われているのだが、結果として、人々が何を「知りたい」かということは、二の次三の次ということになる。
 この点は上述のような重大ニュースにも現われるが、どうでもいい部分においてはより顕著である。先日ゴールデンタイムにスポーツニュースを見ていたら、サッカーやバスケなどみんなが大好きなニュースは後回しで、トップ・ニュースは、各省政府体育局局長会議が北京で開催されました…繰り返しになるが、スポーツニュースである…
 ことほど左様に、中国の報道は、人々が「知るべき」こと(より正確に言えば人々が「知るべき」だと政府または党の関係部門が思っていること)に満ちているのだが、これは昔から全く変わらない。
 メイン・ニュースではほぼ必ず、トップで国家指導者たちの動向が報じられ、これが序列順位に沿って延々と続く。党のナンバー5だか6だかがアフリカの小国を訪問したとか、政府のナンバー7だか8だかが山村の農家の収穫を視察したとか、恐らく特定の国家指導者のストーカー以外はほぼ興味のなさそうなニュースが、大事件や大事故を差し置いて延々と続けられる。
 誇らしげなアナウンサーがこうしたニュースを朗々と吟じるのを見るにつけ、このニュースをちゃんと聞いているのは風変わりな外国人だけだとこの人は知ってるのだろうか、と思ったりする。中国でTVを見るのは小さな子供と老人だけだ、などという話も聞くが、それは極端な話であるとしても、TVがそんな体たらくなら、ニュースなどなおさら見ないだろう。「知りたい」ことどころか、「知らなければならない」ことすらわからないとしたら、大事なときにはTVなんてつけてる場合じゃない。
 「知るべき」と「知りたい」が益々乖離していくのを横目に、見てもらえないニュースを今後も延々と続けていくのだろうか…などと思うにつけ、なんだか可哀想な気もしてくるのだが、それにも増して、なんとも空しい気持ちを覚えざるを得ないのである。

 というわけで、2015年もなんだか複雑な船出であるが、変わるべきものはいずれにせよ少しずつ(またはドラスティックに)変わるだろうし、変わらないものは頑強に(またはかろうじて)変わらないでいるだろう。本コラムでも、変化の兆しをとらえ、また不変の核心を見据えながら、中国の姿を伝えていきたいと思う。今年もどうか駄文にお付き合い下さい…新年快楽 年々有余!(2015年元日)