上海から、皆さんに新年のご挨拶を申し上げます。ブログをご覧頂いている皆様にとって、今年が良い年でありますように。
さて、中国は日本以上に迷信的というか、吉祥にこだわるところがあるので、正月の最初はいい話とかめでたい話で始めよう、と思っていた。
が、困ったことに、正月早々なにやらショッキングな出来事が…とりわけちょうど上海にいる折に、こちらの住居から見えようかという場所で大きな事件が起こってしまったので、これに触れないわけにもいかないように思う。まあ中国の本当の(?)年越しは旧正月なので、めでたい話はそちらですることにして、今回は発生から24時間も経たない衝撃的な事件について話すことにしよう。
元旦は、いつもに増して早く目が覚めた。空が白むにつれ、大晦日の強い北風の甲斐あってか、数日来のスモッグも消え、久しぶりの青空が顔を出す。今年はいい年だな~…なんてのんきな気分になっていたところ、知り合い経由で衝撃のニュースが!深夜のカウントダウンに集まった人々が将棋倒しになり、事件翌日の朝の段階ですでに35人の死者が確認されたとのこと。
驚いてTVを着け、とりあえずニュースを確認…ところが、探せど探せど、そのニュースが見つからない。正月番組っぽいものやドラマ、映画、スポーツ、トーク、バラエティ…ほかならぬCCTV(中央電視台=中国NHK)のニュースを見ても、インドネシアの飛行機事故とイタリアの船舶事故の話を詳しくやっているのに、なぜか地元の大事故の話がなかなか出てこない。
…「なぜか」とは書いたものの、本当を言うと、自分の感覚はむしろ「やっぱり」だった。中国では従来から、報道は「正しい」ことが何より重要で、とりわけ重要なニュースについては、国家と党の関連機関が内容・程度・範囲について精査し、承認があって初めて報道がなされることになる。
加えて、めでたい(はずの)時期にめでたくないニュースは控える、という習慣もある。今回は元旦を過ぎればいいだけかもしれないが、たとえば旧正月や国会開催日、そして建国記念日などには、その時期を通じて、国民的・国家的に重大な事件が起こっても、たいていの場合は映像もなくわずかに一言ニュースを伝えるのみとなる。
そんなわけで、現地にいながら、目と鼻の先で起こった事件について、TVからは大した情報が得られない。とはいえ、TVから情報が得られないのは、こちらの人々も同様である。じゃあどうするかというと、みな口コミまたはネット情報に頼ることになる。
自分にもメールや電話を通して、近しい友人から事件についてのうわさがどんどん入ってきた。いわく、事件現場近くでドル札に似たサービス券がばら撒かれたところ、本物のドル札と勘違いした人々が殺到した結果惨劇が生じたとか。なんともひどい話だと思っていたところ、いや、それは実は誰かが責任逃れのために作り出した話だ、いやいやそれ自体うそではないが、事件現場とはかなりの距離があり、関連があるかは一概には言えない…などなど、さまざまな話が飛び交っているが、どれも事実と断じるには不確かに過ぎる。
そんなわけで、結局ネットや口コミからも確実な情報は得られず、残念ながら皆さんにビックリ情報をお伝えすることもできないのだが、自分はそもそもこの事件の詳細や真実を伝えようというわけではない。伝えたいのは、ここに見られるTVのあり方と、人々の感覚・考え方との救いがたいズレ、である。
よくも悪しくもこのニュース、年末年始の中国で間違いなく一番ショッキングな、しかも身近なニュースだったはずだ。それがワイドショー的興味であれ、身近な危険への警戒であれ、なんと言っても場所も被害者もみな国内である。当然、携帯やメール、さらに食事の際や訪問先でも、人と会えば必ずこの事件の話になった。
それに比して、ニュースのなんと超然としたことか。ローカルニュースはともかく、ほかならぬ中国NHK(失礼…)のニュースは、その多くの部分を予定通りの報道に当て、事件の話は簡略に淡々と「消息」が伝えられるのみであった。
総じて、中国のニュースは首尾一貫して、人々が何を「知るべき」か、ということに重点を置いている。それは報道人員・機関及び報道内容に対する徹底的な管理と審査、というやり方に顕著に現われているのだが、結果として、人々が何を「知りたい」かということは、二の次三の次ということになる。
この点は上述のような重大ニュースにも現われるが、どうでもいい部分においてはより顕著である。先日ゴールデンタイムにスポーツニュースを見ていたら、サッカーやバスケなどみんなが大好きなニュースは後回しで、トップ・ニュースは、各省政府体育局局長会議が北京で開催されました…繰り返しになるが、スポーツニュースである…
ことほど左様に、中国の報道は、人々が「知るべき」こと(より正確に言えば人々が「知るべき」だと政府または党の関係部門が思っていること)に満ちているのだが、これは昔から全く変わらない。
メイン・ニュースではほぼ必ず、トップで国家指導者たちの動向が報じられ、これが序列順位に沿って延々と続く。党のナンバー5だか6だかがアフリカの小国を訪問したとか、政府のナンバー7だか8だかが山村の農家の収穫を視察したとか、恐らく特定の国家指導者のストーカー以外はほぼ興味のなさそうなニュースが、大事件や大事故を差し置いて延々と続けられる。
誇らしげなアナウンサーがこうしたニュースを朗々と吟じるのを見るにつけ、このニュースをちゃんと聞いているのは風変わりな外国人だけだとこの人は知ってるのだろうか、と思ったりする。中国でTVを見るのは小さな子供と老人だけだ、などという話も聞くが、それは極端な話であるとしても、TVがそんな体たらくなら、ニュースなどなおさら見ないだろう。「知りたい」ことどころか、「知らなければならない」ことすらわからないとしたら、大事なときにはTVなんてつけてる場合じゃない。
「知るべき」と「知りたい」が益々乖離していくのを横目に、見てもらえないニュースを今後も延々と続けていくのだろうか…などと思うにつけ、なんだか可哀想な気もしてくるのだが、それにも増して、なんとも空しい気持ちを覚えざるを得ないのである。
というわけで、2015年もなんだか複雑な船出であるが、変わるべきものはいずれにせよ少しずつ(またはドラスティックに)変わるだろうし、変わらないものは頑強に(またはかろうじて)変わらないでいるだろう。本コラムでも、変化の兆しをとらえ、また不変の核心を見据えながら、中国の姿を伝えていきたいと思う。今年もどうか駄文にお付き合い下さい…新年快楽 年々有余!(2015年元日)
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