2014年12月31日水曜日

年の終りに

 年の瀬の地下鉄、中吊りにはいつものように厄除け参りの広告が見られていた。大規模な災害や事故では厄年かどうかなんて関係ないだろうと思うと、人間の非力と愚昧を思わずにおれないが、何かにすがりたい思いは、どうしても捨てきれないものだ。

 自分なりに今年を振り返ってみると、一番大きな出来事は、大学時代の友人が亡くなったことであった。早過ぎる旅立ち、亡がらは在りし日の面影を残すものの、痩せ細った体は闘病の苛酷さを物語る。その姿に涙をこらえきれず、十分に別れを告げることもできなかった。温かいお別れの会を通じて、懐かしくも二度と戻らない人を思い、また抑えきれぬものがこみ上げる。上を向いて肩を震わせながら、亡き人が死の直前まで惜しみなく周囲に与えてくれた心遣いに触れ、喪失を嘆くよりも、故人の気持ちを大切にしたい、といつしか思わされていた。

 今年の出来事と言えば、もう一つ、人生で初めて台湾に行くことになった。以前書いたように、別に予期したわけでも狙ったわけでもないのに、最近大陸に行く際は、その直前に尖閣の国有化があったり靖国参拝があったりと、必ずと言っていいほど、ものすごく歓迎されない雰囲気が醸成されていた。初めての台湾も、あにはからんや「太陽花運動」が勃発、総統府など一部有名観光地には近づくことすらできなかった。
 この運動についてはご存知の方も多いと思うが、要するに、中国と台湾の間で締結された協定(サービス業に関する相互の規制を大幅に撤廃するという内容)がその批准手続において違法または違憲であるとして、その撤回または再審査、若しくは本件及び同様の協定批准のための手続の法定を求め、学生がデモや集団的実力行使を行った、というものである(台湾が経済的にだけでなく政治的にも中国に飲み込まれる、という意識が背景にあると言われる)。その結果、多数の学生が議会に突入し、長期にわたって占拠を続け、警察との衝突やにらみ合いが続くということになった、というわけである。
 自分が台北に行ったのは、ちょうど学生の一部が行政院に侵入しようとして警察と激しく衝突、ついには流血の事態が生じるという、正にこの運動がピークに達した時期であった。友人のバイクで立法院や行政院の周りを見せてもらったが、鉄条網を張り巡らした強固なバリケード、そしてその周りに配置された警察官たちを見ると、問題が日本で報道されているよりもかなり深刻であることがわかった。

 さて、この協定であるが、その条件からみれば台湾にとってかなり有利な内容である、と言われている。また、協定締結から運動の激化まで少し時間が離れていた(その間抗議やデモが続いていたのかもしれないが)こともあり、何か血気盛んな学生がその発散の場を求めているだけのようにも見えた。
 何よりも、「民主」を標榜して議会を占拠するという行為は、民主的な選挙を経ていたとしても、議会の決定が自分の主義・主張に沿わないなら、それを「民主」の名の下に実力で破壊する、ということを意味する。それは、「やっぱり中華民族には選挙や民主は向かないんだよ(=一党独裁がいいんだよ)」という声を、ほかならぬ大陸から、時に勝ち誇ったように、また時に自嘲的に、引き起こすこととなっていた。
 このような状況を見るにつけ、自分にはこの太陽花運動が、いわば嘆かわしいもの、あまつさえ忌まわしいもののように思えてならなかった。世界の各地で上がる「民主(化)」を求める声、そこにどれだけの決意や覚悟があり、どれだけ悲惨な結果を招いているか。それに比して、台湾の学生のなんと安全でひ弱、無知で傲慢、そして無謀で欲張りなことか。傍から見ると、負傷者が出たことをヒロイックに語り、謙抑的とも見える警察の「暴力」を罵倒する学生のほうが、よほどヒステリックで暴力的にすら見えた。
 ところが、4,5日ほど台湾で過ごすうちに、そのような考えは少しずつ変わってきた。それは、一つにはこのような学生の熱意に寄り添い、それをも一つの教育の機会として考える先生方に触れたことによる。「太陽花運動」の影響で、台湾の多くの大学で授業ボイコットやクラス閉鎖という事態が生じていたのだが、それに代わり、デモ・占拠現場での辻説法のような街角授業、広場や公園での「民主サロン」といった討議など、教授や外部講師、そして学生自身による「生きた授業」が行われていた。

授業ボイコット中に学内で「青空教室」ばりに講演と討論が行われているところです。

 さらに、闘争の中で学生が見せていたユーモアや風刺には、懐かしく切ない思いと共に、この運動が平和裏かつ成功裏に終わってほしいという気持ちがこみ上げてきた。それは、権力者の理不尽や非情に直面したとき、それを罵倒または非難するのではなく、むしろ風刺やユーモアでこれを笑い飛ばそうとする、無力な人々のささやかな抵抗が、凄惨な結果をもたらした数々の事件を思い出させたからである(https://www.youtube.com/watch?v=XFDL2ATny9I または https://www.youtube.com/watch?v=0c6SdPi4174 参照)。そこには、理不尽や不条理にも笑いを以て立ち向かおうとする中華民族の良き伝統が溢れるとともに、言葉や気持ちで人々に訴えかけていこうとする真の(または高次の)「討議的民主」の姿が見いだされた。
 ご存知のように、この事態は最終的に双方が譲歩し、協定の再審議と手続面での整備が約束され、ついに学生たちが自発的に立法府を明け渡すことにより、平和的に解決を見た。自分はどこかで、「きっと警察が突入して流血がおきるに決まってる」という臆病者的マジョリティ意識に支配されていたのかもしれない。そんなわけで、この「意外な」解決を目にしたとき、自分の中には強い羞恥と、新しい希望がもたらされた。同時に、台湾の警察官たちが、極限の疲労と困難の中で、学生を若き(未熟な)同胞として、その行為に精一杯の忍耐力を以て接し、安易な暴力を控えたことに、心から敬意を表したい。

某大学教授の研究室に張り出された「授業ボイコット」の張り紙です。「学生は安心してデモに参加するように」と書かれています。

 自分のこの気持ちは、おそらく大陸の方々に(表立っては)共有されにくいであろうし、また日本の方々の多くも、違う感覚・理解を持たれるかもしれない。ただ自分はやはり、情熱と希望と笑いこそが中国に一番よく似合う、と思う。その思いを確認しつつ、この年の終りに、初めて中国に訪れたときの気持ちを思い出しながら、言葉を連ねてみたのである。

2014年12月22日月曜日

暢気な選挙

 先だっての選挙では、某TV局はジャニーズのS君とイケメン政治家K氏の対談を組んだりしたらしいが、これに元N○KアナウンサーT氏が「選挙特番にアイドルとかおかしい」といった書き込みをし、例によって「炎上」したとのこと。自分はそもそもTVを見ないので、この事件については何をかいわんやであるが、少し興味をひかれたこともあり、ちょっと選挙について考えてみることにした。

 西洋の方々から見たとき、日本の選挙がかなりクレイジーに映るのは、つとに知られたところである。以前ドイツのTV局が日本の「どぶ板選挙」のドキュメンタリーを作成してあちらの人を驚かせた、というが、我々が当たり前と思っているいくつかの情景、例えば候補者が必死で頭を下げて時には土下座までしてお願いするとか、街宣車が巨大な音声で政党と名前を連呼するとか、ちょっと考えてみれば頭のおかしい人(たち)と思われても仕方がない絵に満ちている(実際そうかもしれないが)。
 とりわけ東京では、選挙なんだかどうだかよくわからない変な立候補者が目立つ。写真もない選挙ポスターに「自分は救世主で世界はもうすぐ終わる」といった話を小さな字で大量に書いてる人、政策よりも「スマイル!」や「発明」の話ばかりしてる人、自称ロックスターに戦国大名…何の選挙でも出てくる節操のなさもあって、こういう人たちこそが日本の選挙を代表する人たちのように感じられる。
 変な話、西洋よりむしろ中国(大陸)の選挙と比べると、そのバカバカしさはより鮮明になる。中国では日本のようなヘンテコな立候補者も、けたたましい街宣カーも、万歳や土下座に満ちた狂騒的選挙活動も目にすることはない。それどころか、選挙特番や政見放送、そして関連の宣伝や広告すら目にすることもない。
 念のため言っておくと、「一党独裁」とされる中国にも、共産党以外の政党があり、各レベルに議会(「人民代表大会」という)があって、議員の選挙がある。直接選挙は末端の二つのレベル(いわば市町村くらい)に限られ、あとは間接選挙になるのだが、いずれにしても、日本の議員にあたる「人民代表」は、末端から頂点まで一応選挙で選ばれている。一部の大都市では、かなりラディカルな主張を持つ候補者が、選挙民の熱烈な支持を受けて当選することもあるほどだ。

 …とは言ってみたものの、お察しのとおり、この「選挙」、現在我々が思うような選挙とはほど遠い。解散の仕組みを持たない中国では、5年の任期毎に一度選挙が行われるのだが、大方の場合、各選挙区の立候補者は「望ましい人物」に限定され(法的根拠すらある!)、空気を読まない輩が立候補したりすると、選挙期間中なぜか姿を消してしまったり、突然変な罪名で拘束されてしまったりする(明治、大正期の日本のように!)。
こういう事態の根源は、選挙開始前、上級の共産党の偉い人から伝達された「選ぶべき人」のノルマ(性別、民族、職業、戸籍、党員非党員の別…)にある。要するに、これは「あなたの選挙区ではこういう人が選ばれます」、という「神の声」であり、当然ふたを開けてみれば(ほぼ)必ず「選ばれるべき人が選ばれる」ことになる。そして頂点たる「全国人民代表大会」に至っては、その中間に重ねた間接選挙(とそれ以外の仕組み)の甲斐あって、「選ばれるべきでない人」などは決して選ばれないことになるのである。
 言うまでもなく、このような状況は、人々の選挙に対する熱意を失わせる。自由は保障されず、選挙活動は制限され、大した主張もできない。何をしたって、どう頑張ってみても、結局決まったことが実現するだけなのだ。選挙に期待や熱意など持ちようがない。

 翻って我がニッポンを見てみると、立候補者が突然消えたり、逮捕されたり(ビラ配りは捕まるが)もせず、自由な立候補と選挙活動は保障され、その結果、ヘンな人がおかしな主張を繰り返す…あちらと比べるとなんとも暢気な情景である。
 ところが、不思議なことに、選挙は盛り上がらず人々の投票意欲は著しく低い。その原因として、一つには、選挙や政治なんか興味ない、という人々の意識の問題があるだろう。その意味では、汚いオッサンたちが偉そうな説教をタレる番組よりは、イケメンたちが未来を語る番組を流したほうがずっとよい。
 ただ一層気になるのは、中国同様、「結局決まったことが実現するだけ」という予定調和の問題である。今回の選挙でも、おカネの問題で閣僚の辞任が相次いで、それに便乗して「キャバクラ」だの「エルメス」だのが飛び出し、収支の「訂正」も相次いだ。にもかかわらず、そういう人たちは軒並みトップ当選(関係事務所のパソコンを破壊してたりするのに!)、みそぎは済んだ、新たな船出だ!ときたもんだ…要するに、「選ばれるべき人が選ばれる」という点では、日本の選挙も似たようなものなのだ。
 考えてみれば、国民が必要を感じてもないのに突然解散して、何百億もかけて選挙をするというんだから、もはや誰の誰による誰のための選挙かは明白である。少なくとも、莫大なお金と時間と労力をムダにしてまで国民に選挙を強制したりはしない、という点については、中国のほうが日本よりまし、とすらいえる。

 とまれ、逆説的ではあるが、自分はこれが「必要のない選挙」であることを心から願っているのである。既に圧倒的多数を有する与党が、大量の国費を使って敢えて選挙をやる、それがより大きな目的によるものであるとすると…と考えるだけで背筋が寒くなってくるのは、果たして自分だけであろうか。

2014年12月9日火曜日

「法治」の行く末

 以前某所で「井の中の蛙」として駄文を書き散らしていたのだが、このたびゼミの学生が場所を用意してくれたので、こちらでまたいらぬことを書き連ねることとなった。古い蛙を新しい井戸に入れただけ、という憾みがなくもないが、新しい水になじむよう、もっと良い声で鳴こうと思うところである。

 さて、昨日(12月8日)の1時頃、某所で偶然テレビの画面を目にした。それはT○Sの「ひるOび」(事情により名前は伏せます)で、ちょうど中国の元共産党中央政治局常務委員(当時の最高幹部9人の一人)周永康氏が汚職や贈賄などの疑いで逮捕、というニュースの解説をやっていた。
 この周氏であるが、在任中から黒い噂に欠くことはなく、しかも同氏との強いつながりが指摘されていた太子党のホープ薄熙来氏が失脚したこともあり、2012年の新指導体制成立以前から、X-Dayを予想する声がしばしば聞かれていた。またエラい人間が膨大な蓄財をしていることはこれまた周知の事実で、彼ほどではなくとも不正蓄財で処罰されるエラい人など掃いて捨てるほどいる。
 そんなわけで、この逮捕には大して「ニュース」性もないのだが、その地位の高さもあってか、金、権力そして色を巡るどす黒さは他の事件の比ではなく(不正蓄財は2兆円、出世と色のために邪魔な前妻は事故を装って殺害、かつての職場では強姦を繰り返し、愛人は29人いたとされている)、ワイドショーにとって格好のネタであったとは言える。
 このように概ね興味本位の、いわばありがちなワイドショーネタが、しかし自分のある意味学問的関心を引いたのは、あるニュース・フリップの内容が原因であった。それは、周氏の逮捕が、習近平総書記の下で現体制が唱道する「法治」を体現するという意味がある、とするものである。つまり、エラい人でもワルい事をすれば捕まるよ、ということを人民に見せるため、ということらしい。
 念のため言っておくと、このコーナーでは、中国の権力闘争に関しては日本屈指の論者というべき研究者が解説に当たっていた。要するに、コーナーの主眼は権力闘争(及びその他ドロドロ)であり、そもそも「法」の問題にはなかったのだろう。そうすると、なんだか見当違いな批判をするような感じはするのだが、そこは中国「法」研究者としては捨ててはおけぬところ、なのである。
 捨ててはおけないのは何か、というと、それは「法治」の言葉の軽さ、ひいてはその価値の喪失、というべき問題である。この点、少し敷衍して説明したいと思う。

 あちらで政治的地位が高い人が逮捕される場合、それよりかなり前に共産党内での身柄拘束と尋問が行われ(しばしば長期化する)、突然公的な場・行事から姿を消す。今回の周氏にしても、だいぶ前に身柄拘束が伝えられており、長期にわたる身柄拘束の末に、今回の逮捕に至ったのである。
 問題なのは、この身柄拘束には、司法機関による令状や審査・承認の類は全く必要がない、ということである。要するに、ここでは刑事手続上の権利保障などが働く余地もなく、現実には警察や司法よりよっぽど強力な、際限のない身柄拘束と尋問が繰り返されることになる(拷問による死亡事件などもたびたび指摘されている)。
 より深刻なのは、このような法の精神を無視した身柄拘束とそれによる訴追が、少なくとも報道では、「法治」の体現として人民から喝さいを以て迎えられている、とされることである。エラくてワルい奴が処罰されることに人民が溜飲を下げるのはわからないでもないが、報道・輿論は「無罪推定」どころか、もはや「有罪断定」状態である。
 実際に、エラくてワルい奴が捕まると、愛人だの強姦だの小児性愛だの、凄まじい罵詈雑言がメディアを飛び交うのだが、実際に訴追される犯罪は意外なぐらいわずかな不正蓄財だけ、ということが散見される。要するに、ここではエラくてワルい奴には何をしてもいい、という精神状態が蔓延しているのであり、これはリンチが蔓延した文化大革命期の精神構造と変わらない。
 何より、表面上エラくてワルい奴が処罰されたように見えるが、実は既にエラくなくなったから処罰されたわけで、エラい奴が処罰されない状況は変わらない。そして報道を見る限り、彼がエラいときは、不正蓄財しようが強姦しようがさらには殺人までしても、訴追すらされなかったのである。声を上げた者もいただろうが、そのような者は反逆や誹謗、さらには国家機密漏えい等の罪に問われ、結果として空気の読める人たちばかりが残ったのだろう。こういう構造を残したままで、エラかったワルい人だけ処罰して「法治」の体現だと言っている、その矛盾または空虚こそが問われるべきではないだろうか。
 別に他人のことだからいいよ、という向きもあろうかと思うが、ちょっと考えてみてほしい。エラくてワルい奴なんて掃いて捨てるほどいるわけで、彼らへの怒りや憎しみが高まったからと言って、そういう連中を根こそぎ処罰するわけにもいかない。そうすると、今回のように権力闘争の脱落者を生贄にするか、または(おそらく同時に)エラそうでワルい隣の軍国主義者への脅威論が(なぜか)高まり、反日感情が燃え上がることになる。そうすると、日本人旅行者や駐在員は嫌がらせを受け、日本製品のボイコットが起こり、重要物資の対日輸出が制限され…要するに、単純に他人事ともいえないのだ。

 そんなわけで、中国「法」を研究する日本人としては、エラくてワルい奴がバンバン処罰される(往々にして死刑にならないが)よりは、むしろこういうやり方自体ちょっとおかしくないか、という言葉や意識が出てくることにもっと期待しているし、できれば日本の報道もそうあってほしいと思っている(中国の人たちもいっぱい見ているし)。
 それがすぐさま中国によい「法治」をもたらすわけでもないし、大して効果もないかもしれない。また、「法治」が実現しても反日暴動がなくなるとは思えない(54運動のように、民主や自由を求める人々も運動の主力となる)。だとしても、興味本位でエログロの関心を掻き立てるよりずっとましだろう。何より、自由や権利を保障する憲法が変えられようとする時代、自分たちの「法治」の姿を考える良い機会になるかもしれない。もう遅すぎるのかもしれないが。